切り株から芽が
日本アライアンス教団 東京キリスト教会 牧師
田村 啓
エッサイの株から
ひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
その上に主の霊がとどまる
(旧約聖書 イザヤ書11章1節~2節)
アドベントに入りました。それぞれの教会において、今年もイレギュラーな形で、しかし最善の仕方でクリスマスの祝いの時が予定されていることを覚えます。たとえ、礼拝が短縮・縮小する形になったとしても、御子の誕生が驚きと喜びの出来事であることに変わりはありません。心一杯讃美しましょう。
イザヤ書第11章にはよく知られたメシア預言があります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる」(11:1-2)。非常にイメージ豊かな表現です。救い主の到来は、切り株から芽が萌え出るような出来事だと告げられています。
印象的なのは、1節において「ダビデの株から」ではなく、「エッサイの株から」と言われていることです。エッサイは、ダビデの父であり、羊飼いをしていました。息子ダビデに比べるとエッサイは無名であり、また、羊飼いは住所をもたないため、社会的に身分の低い者とされていました。ダビデはサウルから軽蔑の意味を込めて「エッサイの息子」と呼ばれたことがあります(サム上20:27)。しかしだからこそ、ここで救い主の誕生が「エッサイの株から」と言われているところに神様の御心があらわれているのです。つまり、預言者の告げる救い主は、貧しく低くなって私達のところに来てくださるのです。今、Amazonで買える最も高価なベビーベッドは23万円程のようです。例えば主イエスは、神の御子としてそのようなベッドではなく、飼い葉桶(家畜のえさ箱)に寝かされました(ルカ2:16)。それは、「エッサイの株から」と預言者が告げていたとおりでした。
エッサイの株(切り株)から芽が萌えいで、主の霊がとどまる。切り株は「断絶」を意味します。神様から離れて傲慢に生きる者はやがて切り倒され(イザヤ10:34)、そこには切り株が残るのです。私達にとってクリスマスが喜びなのは、神様が切り株の状態から救いの御業を始めてくださったということです。イスラエルの民は神様に背を向けましたが、神様は、その民を見捨てることをなさいませんでした。人間の罪の現実にもかかわらず、いやむしろそうだからこそ、神様は人の罪を救うために御子を遣わされたのです。
アドベントの時期になると、勤めているキリスト教学校で、中学三年生の生徒たちにレイモンド・ブリッグズの『ファーザークリスマス』というアニメーションをみてもらいます。寒がり屋のサンタが休暇を取ってバカンスに行ったり、クリスマスに子どもたちにプレゼントを届けるために、陰ながら色々な苦労をしていることが分かります。授業の中で感想を書いてもらうのですが、その中で、「一生懸命なサンタクロースの姿に愛を感じた」という感想がありました。良い視点が与えられたと思いました。誰かのために一生懸命何かをする。その姿に愛を感じる。誰かのために自分にできる限り、精一杯のことをする。そこに愛がある。聖書の告げる救い主は、十字架にかかるほど貧しく低くなり、犠牲を厭わず、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」主イエスは来てくださいました(マルコ10:45)。貧しく、断絶された切り株のような現実に、私達の救い主が来てくださった!その神様の計らいにクリスマスの喜びがあります。
日本アライアンス教団 東京キリスト教会
田村 啓 牧師
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