孤独の闇に輝く光
日本基督教団千歳船橋教会 牧師
山畑 譲
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」
という意味である。
(新約聖書 マタイによる福音書1章23節)
クリスマスシーズンには飾りが付き、クリスマスソングも流れ、独特の雰囲気があります。ワクワクするような、少しそわそわするような、そんな何か起こりそうな雰囲気です。しかし一方でクリスマスは、周りが幸せそうな雰囲気だからこそ「みんな楽しそうなのに、なんで自分は一人なんだろう」と孤独をより強く意識する時にもなります。誰かといても、そうでなくても、うまく言葉にできない孤独感を味わったり、思い起こしたりすることがクリスマスシーズンにはあるのです。
聖書にも孤独の中にいる人が出てきます。マリアの夫で、主イエスの父となるヨセフです。彼は、婚約中のマリアが身ごもっていることを知ります。それが「聖霊によって」と言われても、一般的に考えれば裏切られたと思うでしょう。少なくとも「裏切ったのではないか」という疑惑が芽を出します。疑惑の芽というものは育つものです。あっという間に大きな木になる程に大きくなります。「裏切っているのではないか」という疑いが、いつしか確信へと変わってしまうのです。そして失望を味わうことになります。一方で、疑われる人も悲惨です。「どうして信じてくれないんだ」と無力感を味わったり、あるいは「あんなに信じてくれていたのに」と空しさを噛みしめることになるでしょう。どんなに説明しても、一度芽を出した疑惑は消えることがありません。そして、「誰も自分のことを信じてくれない」と孤独の淵に落ち込んでいくことになるのです。
人間同士のつながりのもろさを思います。この現実の中、一体誰を信じていれば裏切られないのでしょうか。あるいは、誰なら自分を信じてくれるのでしょうか。もう少し言葉を変えれば、誰が自分のことを理解し、受け入れてくれるでしょうか。一番近いと思われる家族でも、それはなかなか実現しません。むしろ近い人の無理解や裏切りが孤独を一層深くします。
私たちは、生きていく中でそれぞれに痛みを負う経験をしてきていることでしょう。信じていた人や自分のことを分かってくれていると思っていた人から疑われたり、裏切られたりする時に傷を負います。痛み、孤独をより深く味わいます。その結果、「一人がよい」という結論に達することもあるでしょう。しかし、それで本当に良いのかと言うと、そうでもありません。どこかで満たされず、誰かを求めています。やはり、私たちは一緒にいてくれる存在を求めるものだと思うのです。しかし、私たちには何かしらの過去の傷の痛みがありますから、裏切られることを警戒してどこかで一線を引きます。あるいは、あきらめを抱えて歩むことになります。それが孤独な人間の現実です。
御子イエス・キリストの誕生の時となるクリスマスは、「あなたは孤独ではない」とのメッセージを受け取る時になります。天使は孤独の闇の中にあるヨセフに、マリアが身ごもっている子は聖霊によって宿った子であり、インマヌエル「神は我々と共におられる」との名を持つ子であることを宣言し、共に生きる道を示しました。この生まれる子は、やがて成長し、十字架に死に、三日目に復活します。それによって、私たち人は罪ゆるされ、孤独ではなく、神と共に、人と共に生きる存在となる救いの道があることを聖書は「よき知らせ(福音)」として証しするのです。このメッセージを聞き、御子の十字架と復活を自分の事柄として受け取って応答するときに、私たちも孤独ではなく、共に生きる存在とされます。このクリスマスの時、私たちに希望の光を与えてくださる、御子イエス・キリストの誕生を覚えて歩みを進めてまいりましょう。
日本基督教団 千歳船橋教会
山畑 譲 牧師
〒156-0054
東京都世田谷区桜丘5-26-16
Web:www.cf-church.jp