しみじみ思うクリスマス
日本基督教団隠退教師
元 日本基督教団神戸神愛教会牧師
鴘田 將雄
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。
(新約聖書 マタイによる福音書1章21節)
私が「死ぬまで伝道者でありたい」と願ってから71年経ちました。中途半端でどうしようもないこの罪人の歩みを振り返りながらも、新しいクリスマスを迎える喜びは深い感謝でいっぱいです。日本語を無茶苦茶にした明治時代の責任を背負う中で、「クリスマスとはキリスト降誕祭」とはよくぞ言ったものと褒めてやりたい想いです。人間はいつも「下から上に」の道を思考し願望します。しかし、主なる神様は「上から下へ」の道をとられたのです。「一言簡単に言えることは、キリスト教は人間が持っている問題を解決するために神様が与えたものではないのです。神様が、人間について問題にされることを解決するために、神様御自身がお作りになった救いの道なのです」(森有正)。その道がクリスマスに始まったのです。いや、人間が最初にアダムとして主なる神様に反逆した時、それへの裁きを主なる神様が宣告なさったその中に、すでに救いが約束されていた事柄がクリスマスに実現したのです。
人間が主なる神様に犯した罪は人間自らが償わなければなりませんが、然しそれは全く不可能です。なぜなら罪を償おうとする己自らが罪人なのですから。その実体をダビデは預言者ナタンに自分の犯した罪を告発された時「母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです」と言う表現で懺悔しています。ですから「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」のです。主イエス様はその私どもの身代わりになって裁きを受けて死んで下さったのです。主イエス様は私どもの歩みをすべて歩まれたのです。「母の胎内に宿った時から、死んで後に裁きを受ける時までの歩み」を歩んで下さったのです。
人間となって下さった子なる神様の救い主としての歩みは、クリスマスからではありません。子なる神様が聖霊なる神様によって処女マリアに「宿り」たもうたのです。私どもの信仰告白にも「主は聖霊によりてやどり」とありますように、子なる神様は人間に「宿り」たもうたのです。ここからがはじまりです。「子どもが生まれる」ということと「誰が生まれるか」ということは全く別問題です。「子どもが生まれる」ということは徹底して人間の問題です。科学の世界です。しかし、「誰が生まれるか」ということには人間は徹底して関与できません。「誰が宿るか」と言う事柄は聖霊なる神様の領域です。主イエス様は救い主としての歩みをすでにここから始められているのです。そして、「死んで葬られ三日目に甦られ天に昇られたのです」。その故に、私どもはこの主イエス様の歩まれた道を歩むことが約束されているのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたのです。「聖なる公同の敎会、聖徒の交わり(神の国の市民とされ)、罪の赦し、体の甦り、永遠の命」に与っているのです。身分が変わったのです。「罪の子が神の子」とされ、「罪の奴隷が神の家族」とされ、「滅びの子が復活の子」とされているのです。信仰のない人は「クリスチャンである前に人間だ」と言いますが、そうではなく、「クリスチャンになって初めて人間になった」のです。
与えられたしるしは、「幼子」「布にくるまれ」「飼い葉桶の中」という三つの言葉で表されています。「幼子」は、イスラエルに行きますとベツレヘムには主イエス様の御降誕を記念して城塞のような教会堂が建っていますが、ナザレには「受胎告知教会」として巨大な教会堂が建てられています。その教会堂の傍らに小さいヨセフ教会堂が建っています。そこの地下礼拝堂の祭壇の左の窓にとても美しい「マリアとヨセフの結婚式」のステンドガラスがはまっています。クリスマス・カードにすれば良いだろうな、思います。
私たちはクリスマスを迎えて、イエス・キリストに出会うたびごとに、私たちの悩み多い人生に、未来からの希望のし93歳にして、静かにクリスマスを讃美し、しみじみ思うこの頃です。
日本基督教団隠退教師
元 日本基督教団神戸神愛教会牧師
鴘田 將雄