千歳船橋教会では例年12月24日の夜にクリスマス讃美礼拝を行ってきましたが、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大及び感染拡大防止への対応のため、今年(2020年)は12月24日のクリスマス讃美礼拝を教会の礼拝堂では行いません。12月24日に皆で礼拝堂に集まることはできませんが、お家でのクリスマス礼拝をおすすめいたします。
このページ下部に4箇所の聖書の御言葉とクリスマスメッセージを掲載しています。讃美歌を歌い、旧約聖書と新約聖書を交互に読み、クリスマスメッセージを読み、祈りの時を持つなど、お家でのクリスマス礼拝にお用いいただければ幸いです。
なお、クリスマスシーズンは1月6日の公現日(エピファニー)まで続きます。12月24日に限らず、クリスマスを覚えてご家でのクリスマス礼拝をおすすめいたします。
目次
- 旧約聖書 イザヤ書9章1節~6節
- 新約聖書 ルカによる福音書2章1節~7節
- 旧約聖書 イザヤ書11章1節~10節
- 新約聖書 ルカによる福音書2章8節~20節
- クリスマスメッセージ 「クリスマスの光」山畑 譲 牧師
旧約聖書 イザヤ書9章1節~6節
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。
暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、
彼らは刈入れ時に喜ぶように、
獲物を分かつ時に楽しむように、
あなたの前に喜んだ。
これはあなたが彼らの負っているくびきと、
その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、
ミデアンの日になされたように折られたからだ。
すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、
血にまみれた衣とは、
火の燃えくさとなって焼かれる。
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、
ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、
その名は、「霊妙なる議士、大能の神、
とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
(日本聖書協会『口語訳聖書』イザヤ書9章1節~6節)
新約聖書 ルカによる福音書2章1節~7節
そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
(日本聖書協会『口語訳聖書』ルカによる福音書2章1節~7節)
旧約聖書 イザヤ書11章1節~10節
エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。
彼は主を恐れることを楽しみとし、
その目の見るところによって、さばきをなさず、
その耳の聞くところによって、定めをなさず、
正義をもって貧しい者をさばき、
公平をもって国のうちの
柔和な者のために定めをなし、
その口のむちをもって国を撃ち、
そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
正義はその腰の帯となり、
忠信はその身の帯となる。
おおかみは小羊と共にやどり、
ひょうは子やぎと共に伏し、
子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、
小さいわらべに導かれ、
雌牛と熊とは食い物を共にし、
牛の子と熊の子と共に伏し、
ししは牛のようにわらを食い、
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、
乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、
そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、
主を知る知識が地に満ちるからである。
その日、エッサイの根が立って、
もろもろの民の旗となり、
もろもろの国びとはこれに尋ね求め、
その置かれる所に栄光がある。
(日本聖書協会『口語訳聖書』イザヤ書11章1節~10節)
新約聖書 ルカによる福音書2章8節~20節
さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。
御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。羊飼たちは、見聞きしたことが何もかも自分たちに語られたとおりであったので、神をあがめ、またさんびしながら帰って行った。
(日本聖書協会『口語訳聖書』ルカによる福音書2章8節~20節)
クリスマスメッセージ
「クリスマスの光」
山畑 譲 牧師
クリスマスは嬉しく楽しい時ですが、寒さが厳しく夜が長い季節です。クリスマスを12月25日に祝うようになったのは、ローマの冬至のお祭りに、キリスト誕生の意味が重ねられて祝われるようになったものと言われます。冬至は、昼が一番短く、夜が一番長くなる時です。この日を境に少しずつ昼は長くなり、あたたかな春に向かいます。聖書によって示される「暗い世に希望の光をもたらすキリスト(救い主)の誕生」が、昼が長くなりあたたかな春に向かうことに重ね合わせられているのです。喜ばしい出来事として表されます。また、春という命が芽を出し咲き誇る季節へと向かう始まりが、キリストの復活を祝う春の復活祭(イースター)の喜びへと向かう始まりとも重なるのです。
このクリスマスの時、キリストがお生まれになることによって、私たちが抱える闇にも光が与えられることを改めて覚えます。夜が長く寒い季節の闇と、私たちの内面的な闇や私たちの社会が抱える闇が重なり合うのです。社会に目を向けると分断や対立が進み、争いが渦巻く中で傷つき痛んでいる人が多くあります。また身近にも、心のすれ違いや人間の愚かさ、傲慢やわがままの故に傷つき痛んでいる人があることに気付かされます。そして、私たち自身が痛む事もあります。たとえクリスマスの喜びの時であっても、人が集まるところには嘘や裏切りが起こることがあるのです。人の気持ちを全く考えない無責任な言動により痛みと怒りを抱え、心が悲しみと怒りと憎しみに支配され、とてもクリスマスを祝う気持ちになれない時もあります。それほど簡単に闇の中に落ち込むのが私たち人間です。また時には自分が他者を痛めつけ、その心を踏みにじることもあります。どちらの側であっても、人の弱さとも表現される罪に支配されている人間の姿がそこにあるのです。それは闇の中で進むべき道が見えず、座り込むしかない人間の姿です。しかしそんな私たちに、飼い葉桶に寝かせられている小さな幼子が「その闇の中で決して消えることのない希望の光として輝いているのだ」と聖書は告げます。
飼い葉桶に輝く光は、世の中の常識から見れば相手にされない小さな光かもしれません。しかし、この最も深い闇の中にお生まれになった幼な子イエス・キリストこそ、やがて十字架に御自身の命を投げ出して私たちの身代わりとなってくださり、私たちに全き罪のゆるしを与えてくださいます。そして永遠の命に復活されます。この十字架の罪のゆるしと復活の永遠の命を信じるところに救いがあると聖書は示すのです。その救いのためにキリスト(救い主)がお生まれになったのを喜び祝うのがクリスマスです。私たちが多くの悲しみや痛みを負う時には必ず罪が潜んでいます。その罪が解決されなければ、救いはありません。飼い葉桶に寝かせられた救い主・キリストの存在が、その救いに向けて灯された希望の光となるのです。
このことは自分と関係がないように思うかも知れません。しかし誰にでも「闇」という接点があります。これはネガティブなことを言って、嬉しいクリスマスに水をさすものではありません。本当に嬉しいクリスマスとなるために、闇から目をそらさずに醜悪さや残虐さを見据えるのです。そして、そこに輝き続ける光があることを見るのです。闇は社会や隣人の中に、そして自分の奥深くにあるものです。そこに目を向けるのは簡単ではありません。しかし心を静め、聖書の御言葉にきいて神に心を向け祈るときに、神の深い憐れみの内に導かれます。そしてその闇の中に、飼い葉桶に寝かせられたクリスマスに灯される光を見いだす者とされるでしょう。そこには、ゆるしがあり、罪に引き裂かれた傷を癒やす力があることを聖書は告げます。その光を見出し、その光をいただいていく時、大きな慰めと力とをいただきます。感謝と同時に、神を愛し、隣人を愛するという一本軸の通った生き方がはじまります。この希望の光によって私たちは「共に生きる喜び」が与えられるのです。